ダメ人間にもなれない

PCの画面をクリックするしかできない男の日記

ファンでいいじゃない!?

SNSでもブログでも、「友人」や「恋人」といった関係を期待しないようにしたいと思う。むしろ「ファン」でいいんじゃないのか?と思うようになってきた。

 

例えば、好きなアイドルだったりミュージシャンの人のアカウントをフォローする時はフォロバなんて期待しないだろう(むしろ逆にフォローされたら恥ずかしい)。それと同じだ。その人とお近づきになるのではなくて、その人の情報がほしいからフォローする。

 

本来のSNSやブログはそういうものだろうけど、フォローする相手が「一般人」になってくるとついつい対等の関係を求め気味になってくる。「有名人」と違って敷居が低く感じてフォロバとかそういうのを期待してしまう。それで何の反応が無かったら、「何で自分には見向きもしてくれないんだ?」という怒りの感情さえ湧いてきてしまう。

 

こうなってくるとネットでの本来の意味が見失われているよね。情報収集だったり、拡散するのが目的なはずなのにいつの間にか人気合戦というか、フォロワーが多かったり「いいね」を沢山貰えるのがステータス!の世界になっちゃって。そんな構ってちゃんゲームがエスカレートしていくと、バカッターだったり過激な投稿に走って行ったりして。

 

それだったら、極端な話ごく少数の超有名人とか、〇フーなどといった公式アカウントだけフォローしてフォロワーゼロの情報収集専用のアカウントにしたりすればいいんじゃないだろうか。それか、フォロワーの増加を諦めて、完全に言いたい放題のアカウントにするとか(現在の俺はこの辺り)。

 

でもそうは言ってもフォロワーが増えたり「いいね」がついたりするのはうれしいけど、適切な距離は大切にしていきたいところだね。それが変になると最終的に憎悪の結末になっちゃったりするし。

 

なので俺は考え方が違ったり、住む世界の違う人間でも興味のあるアカウントはランダムでフォローするし、逆に有名人であったりそれなりの正論を吐くアカウントでも言動がアウトだなと思ったらミュートとかしていくつもりだ。

 

以上、ネガティブを行き過ぎてなかなかフォロワーが増えない中年の戯言でした。

因みにお答えできることはフォロー外、読者外問わず、できるだけ早くお答えする予定ですので、お気軽にどうぞ。

 

 

クリード 炎の宿敵を見た ネタバレ注意

先日、レンタルにてようやくクリードシリーズの続編をみることができた。

 

 

あらすじ

前回のコンランに惜敗したアドニスはロッキーの指導の下、連勝を続け、遂にチャンピオンにまで上り詰める。私生活では恋人で歌手のビアンカとの結婚を決め、順風満帆。

一方、かつてロッキーに敗れ、アドニスの父アポロの命を奪ったイワン・ドラゴ(以後イワン)は名誉を失い、ウクライナで貧しい生活を送りながら、息子のヴィクター・ドラゴ(以後ヴィクター)を鍛え上げ、ロッキーへの復讐の機会を伺っていた。

そうして戦績を上げ続けたドラゴ親子は、アドニスに挑戦を申し込む。アドニスは悩んだ末に挑戦を受けることを決意するものの、かつてアポロを救えなかったことで後悔の念を持つロッキーは反対する。そして2人は決裂し、アドニスはロッキー抜きでヴィクターに立ち向かうこととなる。

そして運命の決戦の日。当初はスピードとテクニックで優位に立っていたアドニスだったが、ヴィクターの脅威のパンチ力に圧倒され、次第に不利になっていく。そして遂にはKOでダウンを奪われてしまう。その時にヴィクターが反則行為を行っていたため、判定はヴィクター側の失格という形でアドニスのチャンピオンベルトは守られたが、明らかなアドニスの「敗北」だった。

失意のアドニスの前に現れたのは、ロッキーだった。自分がセコンドについてればこうならなかったと。何とかロッキーと和解したアドニスは、ビアンカとの間に生まれた娘アマラを授かり、その子育ての中で自らの闘う意味を見つめなおしていく。そして、ヴィクターとのリターンマッチを決意する。

ロッキーとの砂漠での決死の練習を経て、完全アウェーとなる敵地ロシアへ乗り込む…

イワンのその後

ロッキーに敗れたイワンは国からも、そして政府の高官であった妻からも見放されて、貧しい生活を強いられる。そんな中で自分を破ったロッキーや、見捨てたかつての国の幹部連中を見返すためにも息子を鍛え上げていく。

特に、肉体労働に勤しむヴィクターの姿が初期のロッキーと被って見えるのが印象的だ。

アドニス、父になる

ビアンカと無事ゴールインし、娘のアマラを授かる。しかし、アマラには妻のビアンカと同じく耳に障害があることが判明してしまう。

落胆するアドニスを支えたのが、ロッキーの存在だ。前作に比べてロッキーの出番は目立たなくなってきたものの、ここぞという場面で渋い働きをしてくれる。

感想

以前映画館で見れなくて、ずっとレンタルされるのを待っていた期待の一本だったけど、期待して良かったの一言に尽きた。

展開としてはロッキー3のように、一度は惨敗した相手に再戦を挑むものだけど、定番の人間ドラマ、周囲の人間の葛藤が素晴らしく描かれている。

俺が注目しているのがやっぱりドラゴ親子。敵役らしく、勝利のためには反則も厭わないけれども、自分たちを見捨てたイワンの元妻に対してあからさまに 敵意を剥き出しにしたりと人間臭さを全開に出している。

最後の死闘の際は互いにまともに立ってられないくらいに打ち合った末にヴィクターが追い詰められて、それを見かねたイワンがタオルを投げ入れて、アドニスの判定勝ちとなるのだけれども、その際のイワンの悲しい顔が忘れられない。ヴィクターを抱きしめて「もういいんだ」と慰める姿は、以前の冷酷なエリートボクサーではなく、完全に「父親」そのものだ。戦況が悪化したのを見てその場を立ち去った元妻とは天と地との差だ(本当に救いようのない母親である)。

ラストで、アドニスはアポロの墓参りに訪れ、ヴィクターに勝利したこと、そして新しい家族ができたことを報告する。

ヴィクターはトレーニングを再開し、イワンとともに走りこむ。

そしてロッキーは、長年疎遠になっていた息子のロバートの住むカナダに向かい、再開を果たす。

それぞれの新たな未来を予感させるいい終わり方だったと思う。

 

文字数の拘り

休み明けだというのに、3時ごろに目が覚めてそのまま寝れずにいた。

多分原因は昨日の昼寝がたたったのだろう。まあランニングで疲れたからどうしようもないといえばそれまでだけれども。

 

俺はブログを書くときは最低でも500文字はないといけないという縛りを持っていた。

理由はあまりにも文字数が少ないとtwitterでいいじゃん!となってしまうから。

 

だけどそれだと、折角ネタが思い浮かんでも「内容が深くないといけない」、「長文にするほどじゃない!」となって結局は書かずじまい。

そうこうしている内に更新が途絶えるパターン。

 

未だに「半活動休止」のスタンスを取っているし、今更1日に1記事を書く!というわけではないけど、文字数の拘りで書かないでいるのは勿体ない気がする。

 

必要な拘りだったらいいけど、どうでもいい拘りは断捨離していきたいものだ。

 

GWは珍しく運動した

本日をもって俺の長い連休も終わりとなるけれども、今年は珍しく遠出はしなかった。

 

というのも、例年は東京方面にライブを観に行ったりしていたけれども、今年は遠出してまで行きたいライブがなかった。

 

それじゃあライブに行かなくても、今まで行ったことのない北海道や九州旅行とかすればいいかなと思ったけれども、連休価格の飛行機代を考えると、「そこまでして行くべきなのか?」という気持ちが勝って、結局バイクでちょっと遠出するにとどまった。

 

地元に残って何をしていたかというと、秋のフルマラソンに向けてのランニングだ。本当は毎日走るべきなのかもしれないが、計3回、距離で26kmくらい。

あとは室内でスクワットしたり、鉄アレイトレーニングしたり。

 

俺がやってる鉄アレイトレーニングは、ロッキーザファイナルでロッキーがやっていた、鉄アレイで交互にアッパーするやつ。

その際特に意識してるのが、シバキ野郎、頑張っている人達など、俺が敵視している連中をぶっ飛ばす勢いで鉄アレイを上げる。

 

かなり歪んだやり方ではあるが、憎しみが前向きな行動につながればいいかな、と今は思っている。

 

あと、本番前に何回かはハーフマラソンを入れておきたいね。実際のタイムも知りたいし、それによってペース配分も掴めるだろうし。

もしも大会が無かったら、近くの陸上運動場で同じ距離を走るしかないだろう。

いずれにせよ、週に2~3日は走る習慣を確実につけておきたいところだ。

 

それにしても、ランニングは一人の世界に入り浸れるのが醍醐味だと思う。

部屋の中でゲームしながらSNSをやってると、だらけているつもりでも意外と労力を使うし、心身共に休まらない。しかも体重も増えてくるし。

その点ではランニングは走っている最中にスマホを開くこともないので、精神衛生的にも悪くない。しかも金もかからない(洗濯費とかはかかるが)。

 

この勢いで調子に乗って、ホノルルマラソンまで狙ってみても良いのかもしれないね。

 

 

全力で甘える

令和一発目の記事から強烈なのは申し訳ないと思うが、これぐらいの根性がないとやっていけないと強く思うので、腹を決めていこう。

 

何せtweet読んでも頭に入りにくい程頭が悪く、根性論でしかやっていけないものでしてね。でも根性論を押しつけないようにはしていきたいものだね。

 

Y〇HOOの知恵袋とか、発〇小町とかでも悩み相談に藁をもすがる思いで悩みをぶちまけて、その結果、「甘えるな」、「努力しろ」と精神論の嵐となった経験がおありだろうか?

俺自身はそういったサイトに投降した経験はないものの、過去に自分の悩みを相談した人はいないかよくググっている。

そうするとまあ出てくる、出てくる。酷い場合は似た内容の批判が既に出ているにも関わらずコピペみたいな内容の意見が。本当にここまでくると憤りを通り超して失笑モノだよ。

 

あと、こうした精神論で一番目に付くのが、「他にはもっと苦しんでいる人がいるんだぞ」という意見。一見するとこれは正しい。

実際俺は実家に住めているし、正式な病気にもかかってない(ギリ健という自覚はあるが)。自分がフォローしている人の中には、明らかに正常じゃないにも関わらず、頑張って働いている人たちが沢山いる。

そういう人たちと比べたら俺などはるかにマシだ。だからもっともっと頑張れと。

 

 

 

ってそうじゃないだろ!!??

 

その理屈で頑張る人もいるのだろう(もしかすると多数なのかもしれない)。しかし、それで何かするんならとっくに何かアクションを起こしてるはずなのだ。少なくとも俺はそうだ。

大事なのはそうやって比較するんじゃなくて、命に係わるくらいのレベルの悩みだろうと、取るに足らない悩みだろうとも、その物事の本質をしっかりと向き合って、分析して、それで具体的な行動を取ることだろう?

比較してるのは結局誤魔化してるだけだろう?

そこまで甘えたことを批判するのならば、そいつとしっかりと向き合って見せろよ?

それすらやる時間がない、そもそもやりたくないというならすっこんでろ?

別の娯楽なり楽しいことをすればいいじゃないの?

 

 

激烈に書かせて頂いたが、それでも多くの人は「甘え」と取るだろう。だがそれで構わない。全力で甘えていこうじゃないか。

まあ、向こうが「甘え」を捨てて、こちらを理解しようと歩み寄ってくるのであればこちらも頑張ってあげればいいんじゃないだろうか。

 

運命の出会い

ネット上でだけれども、運命の出会いというのがあった。

 

一人目が、祖父江直人氏だ。

 

彼は「ライブハウスの最後尾より」というブログを運営しており、その中のカテゴリに、「親愛なる自殺志願者へ」という強烈なタイトルのものがある。

ameblo.jp

彼は自殺を行き詰った先の選択肢の一つとして「全肯定」しつつも、それ以外にも楽になる方法があるのかを生きている中で模索しようとするスタンスを取っている。当然ながら自殺を推奨するものではない。

 

彼は幼少期から持つ空虚感、成人してからの仕事上での悩みから自殺願望を抱くようになったが、徐々に自分を受け入れるようになっていって、現在のような考えに至ったようだ。

 

彼の死生観は鋭く、真剣で、自分より年下の人間とは思えないほどの内容の文章を書いている。俺が年相応の考え方をしていないというのもあるが。

 

そして何よりも、自殺というタブーから逃げずに堂々と向き合う信念が凄いのだ。現在もなお立ち向かい続けている。

 

ネット上ではとにかく「生きろ、生きろ」のオンパレードで息苦しく、憤りさえ感じてしまうけれども、そんな世の中に対してひるまずに信念を貫いているというのが異色ながらも魅力的に感じたのだ。

 

そしてもう一人は強迫性障害を専門に扱う、臨床心理士鈴木淳也氏だ。

kco.jp.net

鈴木氏によると、強迫性障害は薬をしようしてもなかなかよくならず、認知行動療法が有効であるとのこと。鈴木氏の言う強迫性障害に対する認知行動療法とは、とにかく不安であることにあえて挑戦することが重要であることだ。

 

例えば、出かける際に鍵がかけたか不安になって、何度も戻って確認する確認強迫の場合は、戻らずにそのまま出かける。

 

汚いものに触ったかもしれないと不安になって、手を洗ってしまう不潔強迫の場合は、あえて手を洗わない。

 

そして重要なのは、こうした行動をずっと続けていくことなのだ。

俺自身は車を運転していて人をはねたかもしれないと不安になって、前通った道に戻ってしまう加害強迫と、品物を箱に入れる作業をしていて本当に入れたか不安になって何度も箱を開けて確認してしまう確認強迫がある。

 

鈴木氏の存在を知る前は「何でこんなに確認に時間を取られるんだよ?」という得体の知れない疑問があったけれども、ググっていて鈴木氏のサイトにたどり着いてからは、ようやく長年の疑問が晴れた気持ちになった。

 

実際に鈴木氏のカウンセリングは受けてないが、鈴木氏のtwitter上での呟きを参考にして、自分なりの形で「行動」しているつもりだ。今後症状が悪化することがあったら正式なカウンセリングを受けることもあるかもしれない。

 

最後の一人だけど、これは前回の記事で紹介した黒バス事件の最終意見陳述の渡邊博史氏だ。

 

teinousennin.hatenablog.com

 内容は割愛するが、彼の努力に関する考察が自分が長年悩んでいたものにベストヒットした。

 

長年の仕事等の悩みや家族との板挟みで人生を諦めていた俺だが、心の奥底では現状打破を渇望していたのだろうか。そうじゃないとこういった運命の出会いはなかったのではないかと今は思う。

 

何とか運命の出会いを無駄にしない為にも、令和には動き出したいものだ。

 

忘れてはならない人たち

今回もネガティブかつ重い内容の記事なので、自己責任の上で読んで頂きたい。

 

平成の最後にこんな記事を書くのはどうかと思うが、どうしても忘れてはいけない人たちがネット上に結構いた。

 

その中で3人だけ紹介させていただく。

 

一人は、無への道程というブログを書いていた、zar2012氏だ。

彼はFXで150万円の損失を出して労働意欲を失い、そこから残された貯金を使って生活していく様を淡々と綴っていた。貯金が底を尽いた2012年の秋に記録が途絶える。

生死の詳細は未だ確かではないが、個人的には亡くなられただろうと思われる。

彼は生前にゲームのシナリオライターとして働いており、その過酷な労働内容からFXで稼ぐ方向にシフトした。しかし、東日本大震災時に150万円の損失を出して完全に生きる気力を失っていった。

 

もう一人は、君が悪い、君というブログを書いていた、bukimiotoko氏だ。

彼は元々営業の仕事に就いていたが、仕事内容に耐え切れず、歯科技工士に転身する。仕事にも慣れ、技術的にもそれなりに上がってきたものの、長時間労働に加えて低い報酬、そして周囲との人間関係に悩まされ、退職。その後は国内旅行等を楽しみ、2013年の初めごろに記録が途絶える。

こちらも生死の詳細は不明ではあるが、亡くなられたと見ている。

 

そして3人目は、今年の初めごろに知ったのだけれども、引きこもりライダーの隼氏。

彼はtwitterFacebookYOUTUBEなどでバイク旅の写真や動画を投稿する、個人事業主だった。彼も以前は会社員として働いており、最近脱サラして個人事業主に転身したようだ。彼のtwitterFacebookを覗いてみると、日本全国を彼の愛車のSUZUKI 隼で旅している様子や、日本各地のグルメの写真が沢山アップされており、同じバイク乗りの自分から見ても楽しそうだなあと思っていた。

しかしながら、2018年9月27日、突如「ここが旅の終点」という内容のツイートを最後に記録が途絶える。

彼の場合は、Facebook上で追悼のコメントが多々寄せられていたので、亡くなられたことが確定している。

 

その他にもネット上で亡くなられたと思われる人がいるが、諸事情の為割愛させて頂く。こうしたネット上で亡くなられた(と思われる人も含む)人たちに共通しているのが、生き辛さ、仕事上での悩みであると思う。

 

zar2012氏は高校を卒業した後専門学校を経て、アルバイト等の職を転々として、最終的にはゲームのシナリオライターになった。しかしそこでの仕事内容が過酷で、長時間の拘束や、休日でもお構いなしにかかってくる電話、低賃金などで散々悩まされ、そこから脱するためにFXの世界に足を踏み入れた。

 

bukimiotoko氏もzar2012氏と似たような境遇で(無への道程の影響を強く受けたことが明確に書かれている)、自分の境遇を変えようと歯科技工士に転職するも、過酷な労働と低賃金によって生気を失っていって絶望へと変わってしまった。

また、育った家庭環境も複雑で、それも彼の人格形成に影響してしまっていたようだ。

 

引きこもりライダーの隼氏の前職の詳細はわからないが、前職時代や幼少期に何らかの影響があったのかなと推測してしまう。

 

特に昨今の不況や閉塞感によって彼らのような悩みを抱えた人たちをネット上で多く見かけるようになった。かく言う自分もその一人だ。彼らとはスペックも生い立ちも違えども、どこか赤の他人とは思えないのだ。彼らの影響を受けて生きているといっても過言じゃないし。

 

俺はこのブログで「生きろと命令することはできない」と何度も書いてきているし、それは変わらない。

だけど「行ってはいけない領域」に達する前に、もう少し生きやすくする方法はなかったのかと思う。

平成が終わり、令和という時代には自分も含めてこういう人たちが少なくなってくれることを願うばかりだ。