ダメ人間にもなれない

PCの画面をクリックするしかできない男の日記

皇居ランしてきた

現在タイにいるのだけれども、タイに行く前に滞在した東京にてついに皇居ランをやってきた。

 

その日は品川のホテルに泊まっていて、チェックアウトが11:00で起きたのが6:00だったので山手線に飛び乗って東京駅まで足を延ばした。

 

約30分かけて皇居に辿り着いて、8時くらいの時は走っている人たちはまばらだった。だけど、とにかく寒い!!俺はランニングTシャツの上にウィンドブレーカーを羽織っただけだったのでこたえた。それ以上に手が冷たかった。本当に冬のランニングの際は手袋が必須だ。

 

天気はいいけどやはり寒い

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皇居は外周一周で約5キロ。なので走る目安も立てやすいためランナーが多いとのこと。途中は細い路地や坂道もあるものの、山道みたいな急勾配はないので初心者でも走りやすい。個人的には半蔵門周辺(TokyoFMのあるところ)のロケーションが最高だと思う。

 

前回の記事で走り納めと書いたけど、事実上これが走り納めとなった。途中ipodの選曲の為に立ち止まったりしたので全力のランとは言えないが、足慣らしとしては良かったんじゃないかと思う。というよりも年末に走れたのは個人的にも大きいと思う。

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現在正式にエントリーが決まっているのが1本で、あとの2本も来年の後半に控えている(内1本は個人的にも一大イベントです)。

 

来年も時々止まることはあっても走り続けていきたいものだ。

ようやくですが10000アクセスを突破しました

遅ればせながら当ブログを開設して約1年と少しで、

 

 

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アクセス数が10000を突破いたしました。

 

先日の一カ月のアクセス数が1000を突破したことに続いて、本当に感謝の限りでございます。

 

本当にこんな言いたいことだけを並べるだけの、本気で収益を考えているブロガーの皆様からしたら取るに足らない内容であるにも関わらず、正直信じられないというのが本音です。

 

今年も残り僅かですが、もう一本書けたらアップしたいと思っています。

 

今後も「ダメ人間にもなれない」を宜しくお願いいたします。

一億総活躍社会ってあるけど

現政権は「一億総活躍」をスローガンに掲げているけれども、政治家の人たちはどれだけ本気でそれを信じているのだろうか。

 

一億総活躍なんて言っているけれども、今の高度化した仕事内容だとどうしても無理があるだろう。せめてベルトコンベアに流れてくるあんパンにゴマをのせる仕事が今の100倍あって、それで月に15万円稼げるのであればまだできると思う(っていうかそんな仕事を俺に紹介してくれ)。

だけど実際にあるのはプログラミングとか超複雑な内容で給料もさほど高くないものばかり。それに対応できる人はやはり限られてくる。

 

それにこれはちょっと偏見も入ってしまうが、昔の仕事は体力的にキツくとも仕事の内容的にはそこまで複雑でなく、知識や学力もそんなに必要としなかったものも結構多かったと思う。なので大卒とかでなくても職には就きやすかったのあるだろうが、現在の高難易度の業務となるとやはりそれなりの学力が求められる。

 

勿論現在はアフィリエイトとかyoutuberとかそういう新しい分野の仕事も出てきているけれども、成功するのは少数の人間だ。なので一億総活躍なんてものはどう考えても無理ではなかろうか。というよりも政治家の人たちも頭は悪くないのでハナから信じてないと思うが。

 

だったら素直に少数精鋭奮迅社会にしてしまえばいいと思うね。かなり精神論全開だけど、こちらの方が合理的だし個人的にはカッコイイ響きだと思うし 笑。

 

やっぱり方向性としては少数の有能な人が猛烈に頑張って、後はベーシックインカムでお金を配るか、軽作業やボランティアをやったら一定の報酬が出るシステムにした方がいいね。こんなものは絶対無理なのはわかってはいるが、全員が頑張る社会なんてものはそれこそ「パヨクの妄想」と同じ次元の話だ。

 

この国にも「本当の現実」を直視できる人が一人でも多く残っていたらまだ救いはあると思うけどどうだろうか。

 

無能な底辺って必要悪かい?

いきなりな話で何なのだが、自分も含めて無能な底辺には生存する義務があるのだろうか?

 

色々な答えがあると思うが、現状としては「必要悪」であるので一種の義務であると思う。かなり残酷な例えになってしまうが、もしも底辺が邪魔だから粛清!とやってしまうと次に叩かれるのはその上の層の中流の人たちになってしまうから。あとは「底辺が必要悪なのはちゃんと努力をしなかった罰だ!!」とか言ってくる輩も一定数いそうだしね。

 

それにあえて無能なやつを組織に置いておくと安心感が産まれて会社の業績が上がったなんて話を聞いてことがある。一種の噛ませ犬みたいな感じだろうか。そういう意味ならばどんな無能にでも価値があるというのは一理あるといえる。

 

でも俺から言わせればその会社は完全にオワコンである。何故ならば成長することを放棄しているから。無能な人間の存在で安心感を得る方法は一時的には組織がまとまるだろうが、新しい商品やプロジェクトを開発したりする面を考えると意味はないだろう。

以前「いじめを行うものは自分の首を絞めている」というのを聞いたことがあるが、それと同じような感覚だと思う。

 

こんなことを言ってもどうしようもないのはわかりきっているが、せめて奴隷にもなれないやつを奴隷にするのはいい加減にやめておかないか?そんなことをしていたら彼らに思わぬ「反撃」を喰らうか、貴重な時間を無駄にするかになってしまう。

 

 

正論よりも行動

福本伸行氏の漫画「カイジ」で利根川幸雄というキャラクターが忘れられない。

彼は物語の初頭で主人公のカイジが乗るギャンブル船エスポワールにて登場し、後にスターサイドホテル編にてカイジとも死闘を繰り広げる悪役でもあり、後のスピンオフ作品の主人公を務めるある種の人気者でもある。

 

利根川幸雄のセリフで有名なものといえば、「金は命よりも重い」だ。エスポワールに集まった負け組のダメ人間達に自己責任や弱肉強食、努力至上主義満載の説教をして、その正論ぶりから一部では利根川先生とまで呼ばれている。

 

でも俺から言わせればそのお説教はクソ食らえなんだよね。特に俺みたいなダメを通り越して虚無にまで辿り着いてしまった人間にとっては 笑

 

俺にとっての利根川幸雄はステレオタイプだけど「焼き土下座」である。カイジにEカードで敗れてその制裁として兵頭会長から焼き土下座をさせられることになったが、利根川は自ら補助器具を使わずに灼熱の鉄板に上り、一人でやり通した。そしてその様を見たカイジはただ涙を流し続ける。

 

要約すると、どんなに見事な論理で固められた正論よりも具体的な行動の方が響くということなのだ。そして人は負けた時にどのように行動したかによって評価が決まるということでもある。

 

もしも利根川が焼き土下座をさせられる際に無様な言い訳をしたり、泣きわめいたりしていたらただの小賢しいクズで終わっていたし、ここまで人気にならなかっただろう。

彼はどうしようもない悪人ではあったが、悪人なりの意地を見せて責任を果たしたのだ。

 

世の中には本当に正論が多い。だけど正論なんてのはネットで少し勉強すれば中学生でも吐けてしまうのだ。それで「はい論破!」なんてやってるのを見るとしょうもないと思う。

 

かく言う俺自身はというと、負けた時は言い訳が多くなってしまうのが現状だ。少しは「利根川先生」を見習った方がいいのだろうな。

 

 

もう一発リーマン級の不況がくるだろうが

経済は本当に疎い俺ではあるが、そろそろリーマンショック級の不況がくるんじゃないかと妄想している。というのは巷で噂されている東京オリンピック後の経済の冷え込みが予想されるのと、現在も大手企業でリストラが始まっているのを聞いて「そろそろくるんじゃないか?」と胸騒ぎがするからだ。

 

思えばリーマンショックの時は約10年前で、俺も社会人3年目くらいだった。当時は親からは「とにかく会社は辞めるな!」と言われ続け、会社からもパワハラまがいの叱責の連続で完全に板挟み状態。

それに加えてリーマンショックがやってきて会社の仕事量が激減して、従業員も半分くらいまで削られて俺自身の仕事量も倍増してTHE END。本当だったらここで会社を辞めて引きこもっていた方が良かったのかもしれないが、それも許されないという最悪の状態。今思い返してもトラウマと無念さで発狂したくなるほどだ。

 

過去の話はここまでにしておいて、やはり来年辺りにやってくるリーマン級の不況に対してだが、俺が思いつく対策案はこうだ。

 

電験三種を取ればいい

 

いくら不況と言えども、合格率10%前後の高難度で電気主任技術者の需要は消えないのでこれさえ取ればほぼ天下無敵といえる。俺がたまに覗くブログの方々も電験三種の勉強を始められたのを見かけるし、不況対策としては間違いないだろう。

 

勿論電験三種以外にも高難易度で需要のある資格等は沢山あるので、それらを調べて勉強するのもいいだろう。

 

それじゃあ俺も始めるべきではないかという話になるだろう。

 

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残念ながらその予定はございません。

 

 

いくら政治経済に疎くて頭の悪い俺でも近いうちにリーマン級の不況がくる危険性くらい想定できるよ。なのに何でスキルアップとか自己防衛とかしないのかというと、

 

現在のぬるま湯状態の日本で一杯いっぱいだから

 

20代の頃にエネルギーの貯金を使い果たしてしまったから。本来だったらとっくの昔に引きこもってるのに未だにフルタイムで現役で働いているのが奇跡なのだ。そんな人間に勉強して惨めな現状から脱しなさいとか言ってもハッキリ言って時間の無駄だし、死体に点滴を打つようなものだ。

 

そんな状況なので俺は残された時間の中でできること、好きなことをできる限りやっていくのみだ。少なくとも10年前みたいに何もできずに流されてボロカスになる真似はしたくない。

 

かつて質問箱で質問したこと

質問箱を止めて早3か月が経つが、向こうから質問されることは結構あったがこちらから相手に質問をしたのは本当に数える程しかなかった。

 

その中の一つで未だに脳裏に焼き付いているものがある。

 

「生きることは義務か、権利か?」

 

本当に意地悪な質問をしてしまったと今は思う。間違っても入社試験の面接官は入社希望者に対してこんな質問をしてはいけない。

 

それに対しての回答はこうだった。

 

「難しい質問ではあるが、おそらく正解のない答えだ。少なくとも自分は権利だと思いたい。」

 

正直回答があるとは想像していなかったが、真摯に回答してくださった。そのことには本当に感謝したい。

 

俺はブログやtwitterでも「生きたきゃ生きようぜ!」とか声高々と叫んでいて、生きることは義務じゃないということを度々主張してきた。だけど本当にそう言い切れるのだろうか?

 

基本的に生きたい人が生きればいいと考えているが、生きる義務が発生する場面も確かに出てくる。

一つは犯罪を犯して刑務所に服役する場合。裁判で決められた期間は生きて罪を償う義務が発生する。

二つ目は養う家族がいる場合だ。親、子ども、兄弟、同伴者、ペットも含んで。そういう場合においては個人だけの問題では済まされないので、簡単に人生を諦めさせたりすることはできない。もっとも、家族を養う自信がないのだったら最初から家族を作ったりするなという話になってくるが。

 

何かすごいゴッチャゴチャになってしまったね。それだけ生きることに関しては一概に言い切れないということなのだろう。

 

そうすると安易に生きるのが嫌ならば死ねばいいじゃん!と言えなくもなってくるが、だからといってみんな苦しんででも生きる義務があると主張することもできないのも事実だ。生きる義務を課すだけでは問題解決にならないし、むしろ犯罪とかの新たな問題が生まれる危険性もある。

 

なので、生きる義務が生じるケースがあることを踏まえつつも、俺は基本的に生きたい人が生きるのがベターであると言い続けていきたい。その方が生きやすくて楽しいはずだろうし。