ダメ人間にもなれない

PCの画面をクリックするしかできない男の日記

毒親であろうとなかろうと

先日twitterにて、

「自分の親は毒親だと思っていたがそれは間違いであった。」

「過干渉も愛の一つであり、それは必要なことであった。」

という趣旨のツイートを見て長々と呟いた。そして、こういったことはtwitterで連投するよりもブログでまとめた方が良いと判断したので今回は記事にでもしてみよう。

 

twitterでもブログでも毒親育ちを公言している、或いはそれに近い人を良く見かけるし、フォローもさせて頂いている。それでその多くの人達が生き辛さを抱えながら生活していたり、新たな一歩を踏み出せずに苦悩していたりする。

 

そもそも毒親というのはどこまでが範囲なのだろうか?俺の見解では子供の見解次第であると思う。

毒親の定義については各々検索して頂ければわかると思うが、俺個人としては心身の虐待、ネグレクトとかになるのかなと思っている。

だが子どもの方が虐待でない、毒親でもないと判断していたらそれでおしまいなるのではなかろうか?逆に、傍から見たらしつけの範囲であっても毒親だと思い込んでいたら毒親になってしまう。

因みにうちの親は毒ではないが、こちらの意見を聞かない一方的な面が強かったと認識している。

 

近年は毒親という言葉がすっかり市民権を得ていて、毒親ガーと声高々に叫ばれている。何でもかんでも毒親と吐き捨てるのは単なるネガティブキャンペーンみたいなもので如何なものかと思ってしまう。中には明らかに「毒」でもない親もいると思う。

というよりも親というのは誰でも多かれ少なかれ「毒」の性質を持っているのではなかろうか?

勿論明らかな毒親である場合は非難されても文句は言えないが。

 

過干渉について言えば、あくまでも俺の偏った意見になるけれどもデメリットの方が大きいと思う。

発達障害等の影響でどうしても過干渉気味に育てざるを得なかったのかもしれないが、過干渉に育つと自分で判断できない指示待ち人間になりやすくなったり、何よりも自己肯定感が育めないのだ。

自己肯定感がないと本当に努力も何もなくなるし、成長すらもない。それだったら放任主義の方が自由を与えられるので自己責任で行動できるし、失敗したとしても自分のせいにしかできない。まあ放任主義は迷惑系になりやすいのでかなり問題ではあるが、少なくとも過干渉よりも行動力もあるので人生も修正しやすいと思うのだ。

 

最後に毒親であるなし関係なく、親の愛が一方的な押しつけになってはならないということだ。子供の為を思ってと言えば正当化される傾向にあるが、それだとストーカーのそれと変わらないだろう。例え愛があったとしても、それが相手を結果的に苦しめて人生を棒に振ることになってはならない。

 そして、どうしても親と考えが合わない、心身共に苦痛を感じるのであればできるだけ早く自立等をして距離を取るべきだ。親信仰が根強いけれども、それに拘っていたら最悪の結果を招いてしまう可能性が高いので。