ダメ人間にもなれない

PCの画面をクリックするしかできない男の日記

やらない理由を探すについて

「やらない理由は探したくない」

 

こうした文言がたまに目に入る。こうした発言をする人達からすれば、

 

「やらない理由を探して怠けたりするのは人間の風上に置けない」

 

「楽な方向に逃げるのを正当化してはいけない」

 

といった感情があるのではなかろうか。確かにやらない理由を探して行動しなかったら何も変わらないというのは頷ける。

 

しかし、やらない理由そのものを完全否定するのは如何なものかと思ってしまう。

 

例えば身長が160cmの人がプロバスケの選手になりたいけれども、身長が低すぎるから到底無理だと諦めるのは間違いだろうか?最初から諦めるのではなく、高速ドリブルやパスの練習を徹底的にやれば、もしかしたらプロになれる可能性もゼロではないのかもしれない。それでも身長の差というのは大きなハンディになるし、別のスポーツに転向した方が活躍できる可能性が高いだろう。

 

あとは幼少期からいじめや虐待を受けて自我を破壊されて、30年以上ひきこもっていたので人生を諦めたい!というケースはどうだろうか?大抵の場合は「人生をやり直そうともせずに逃げるなど人間のクズのやることだ!」と罵るか、「人間何歳からでもやり直せる」といった具体性に欠ける綺麗ごとで片付けられるかであろう。

一つ目はともかく、二つ目の例は残酷な話になってしまったけれども、やらない理由を探して諦めたり何もしないのは社会的にもウケが悪く、否定されがちだ。

それでも圧倒的に不利な事実や科学的根拠があったりするのも現実であり、そうした現実から目を背けることもまた逃げではないのかと思う。

 

やらない理由や不都合な事実に敢えて目を背けて行動するというのは時として必要なのかもしれないが、それはあくまでも自己責任の世界であり、人にそれを押し付けたり、何もしない人間を叩く理由にしてはならないと思う。

 

いつまでたってもネガティブなことを書いてるんじゃねえ!!とお叱りを受けるのかもしれない(殆どは呆れてるのだろう)が、目を背けたくなる、胸糞悪い事実も頭の片隅に置くことは忘れないようにしたい。