ダメ人間にもなれない

PCの画面をクリックするしかできない男の日記

球童 伊良部秀輝伝を読んで

今回は日本プロ野球のロッテや大リーグのヤンキースなどで豪速球投手として活躍した後、2011年に自ら命を絶った伊良部秀輝氏について書かれた、田崎健太氏の「球童 伊良部秀輝伝」を読んだのでレビューを書こうと思う。

実は以前から伊良部氏について興味があり、思い切って注文してみたのだ。

長文になるので、お時間のある方はお付き合いを。

 

 

伊良部氏の生い立ち

伊良部氏は沖縄で当時米兵だった父親と飲食店で働いていた母親との間に産まれた(その際結婚はしていない)。その後は兵庫県に移り住み、小学生から野球を始めた伊良部氏は恵まれた体格を活かして頭角を現していく。

その後、高校野球の強豪校である香川県尽誠学園に行って更に力をつけて甲子園出場も果たし、当時のロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)からドラフト1位指名を受けてプロ入りも果たした。

ただ、幼少期から「ごんた」(悪者)と呼ばれるなど素行面で問題があった。

 

プロ入り後

速球を注目されてロッテに入団してからしばらくは成績が伸び悩んだ。球が速いだけではプロの世界では簡単に打たれていたのだ。そこで伊良部氏は様々な指導者たちから教えを受けたり、自主トレーニングを重ねたりして研鑽していく。そんな中、当時のチームの同僚であった牛島和彦氏の助言や指導が伊良部の才能を開花させて、チームのエースに成長するまでに至る。

 

ただ、当時のロッテのGMを務めていた広岡達郎氏との確執や、伊良部氏自身が起こしたトラブルによってチーム内で孤立を深めてしまう。

メジャーリーグ挑戦

伊良部氏には幼い頃からメジャーリーグへの強い憧れがあった。それも名門ニューヨーク・ヤンキースだ。しかしながら、当時は海外FAもポスティングシステムもなく、メジャーリーグに行くには任意引退選手となる必要があった(同時期にメジャーリーグに渡った野茂英雄投手は任意引退選手扱いとなった)。しかも、当時のロッテと業務提携を結んでいたサンディエゴ・パドレスとしか交渉できなかった。

そこで伊良部氏と代理人は三角トレードを用いて何とかヤンキースと契約を結ぶことに成功する(これが今でもお馴染みのポスティングシステム導入のきっかけとなった)。

 

入団当初は契約問題による準備不足などによって、5勝4敗に終わった。しかし2年目は13勝9敗と勝ち越し、チームのワールドチャンピオン制覇に貢献して、日本人初のチャンピオンズリングを獲得している。3年目も11勝7敗と勝ち越してワールドチャンピオンに制覇に貢献し、2つ目のチャンピオンズリングを獲得している。

 

しかし、トレードでモントリオール・エクスポズに移籍してからは怪我等もあって成績が上がらなかった。挙句の果てには遠征先で酒を飲み過ぎて意識不明となって搬送されてしまい、それで解雇となる。

 

その後はプエルトリコウィンターリーグに参加して好成績を収め、テキサス・レンジャーズとの契約を結ぶ。当初は先発での起用だったが、途中から抑えに転向して順調な滑り出しを飾る。しかし、シーズン途中頃から打ち込まれるようになり、さらに肺血栓が見つかったことによってチームを去ることになる。

 

日本球界復帰と2度の現役引退

レンジャーズ退団後はチーム改革を進める阪神タイガースと契約を結び、7年ぶりに日本球界復帰を果たす。復帰1年目は13勝を上げてチームのリーグ優勝に貢献するが、2年目は1勝も上げられずに終わって、シーズン終了後に戦力外通告を受ける。その翌年に、現役引退を宣言する。古傷の膝が悪化していたのだ。

 

現役引退後は自宅のあるアメリカのロサンゼルスに戻ってうどん店の経営に乗り出すが、長くは続かなかった。その後は膝の調子が改善されて投げられる状態になっていたので、アメリカの独立リーグロングビーチ・アーマダで現役復帰を果たす。

その後は日本の独立リーグ、高知・ファイティングドッグスに移籍するものの、右手の腱鞘炎を起こしてチームを退団。二度目の現役引退となる。

 

最期

ロサンゼルスの自宅に戻ってからは酒浸りになりがちで、飲酒運転で逮捕されるなど荒れた生活を送るようになる。そして妻子とも別居状態となり、孤独となって精神的に不安定になった伊良部氏は自宅で首を吊って亡くなっている状態で発見される。

 

まとめ

伊良部氏は幼少期から野球の才能はあったものの、暴力事件を起こしたりトラブルを起こしたりと素行面に問題があった。有名なのはマスコミに対しての暴言や悪態だけど、日本プロ野球時代、メジャー時代、引退後も数々の警察沙汰やトラブルを起こしている。

そうした面は擁護できないものの、彼は後輩をいじめたりすることはなかったという。むしろ伊良部氏に可愛がってもらったという人も少なくないことから面倒見のいい人物であったことが伺える。

また、ファンサービスにも快く応じたり、慈善活動にも積極的に参加するといった一面があったこともわかった。

 

伊良部氏はものすごく研究熱心で、自らの投球フォームや投球術を繊細に考える努力家でもあった。プロ入り後も色々な人達に教え受けて自らの糧として、それを後輩に惜しみなく教えていた。

とある動画で見たけれども、エクスポズ時代に同僚だった吉井理人氏は「伊良部は教えるのが上手いですよ」と話していた。吉井氏の言う通りで、伊良部氏は説明や物の例えが上手くてわかりやすい印象だった。

 

あと、伊良部氏と実父はアメリカで何度か再会していたものの、その距離感を埋めることは叶わなかった。厳密に言えば完全に縁が切れていたわけでなく、実父側が歩み寄りの姿勢を止めていなかったので、もっと時間をかけて交流を重ねていればそれは可能だったかもしれないのだ。その辺りが悲劇としか言いようがない。

 

最後に、暴力沙汰やトラブルなどといった素行面では問題があったのは事実ではあるものの、野球を心から愛して真摯に取り組む姿勢が本物であったこともまた事実なのだ。

そして不器用ながらも優しい心と繊細さを併せ持っていて、どこか惹きつけられる魅力を持った人物であったと思う。

せめて彼の近くに支えてあげられる人がいれば今も野球界に貢献していたことを考えると、惜しい人を失くしたとしか言いようがない。

 

長文失礼しました。