ダメ人間にもなれない

PCの画面をクリックするしかできない男の日記

沈黙-サイレンス-を観た ネタバレ注意

先日Netflixにてマーティン・スコセッシ監督の映画、「沈黙-サイレンス-」を観たので感想を書こうと思う。

 

 

あらすじ

 

鎖国直後のキリスト教禁教令の江戸時代。キリスト教イエズス会の宣教師であるロドリゴ神父とガルペ神父は日本での布教を使命としてたフェレイラ神父が棄教したという知らせを受け、真偽を確かめる為に日本へ向かうことを決意する。

2人はマカオにて日本人のキリスト教徒のキチジローと出会い、彼の手引きで日本のトモギ村に潜入することに成功し、村人たちに布教を広めていく。

そんな中、トモギ村に隠れキリシタンがいることが発覚し、村の長老、キチジローら四人が役人に捕らえられてしまう。役人による「踏み絵」の他にキリスト像に唾を吐くように迫られた村人の内、唾を吐いたキチジローは罪を免れたが、他の三人は処刑されてしまう。

壮絶な処刑を見たロドリゴ「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか―?」と苦悩する。

役人からの逃亡生活を続けるロドリゴであったが、途中でキチジローに銀300枚で役人に売られて捕らえられてしまう。奉行所では役人に棄教するように迫られるが、ロドリゴは頑なに拒絶する。

そんな中海辺に連れてこられたロドリゴは他に捕らえらたキリシタン、そして別行動を取っていたものの捕らえられたガルペが処刑されるのを目の当たりにする。そして役人からはキリストの教えの為に命を落とす人間が大勢いると責め立てられる。

そんな中、棄教して沢野中庵と名乗るフェレイラ元神父と再会する。フェレイラからはキリストの教えは日本では根付かない、棄教するべきだと諭される。

そして、ロドリゴの目の前で他のキリシタンが処刑されようとして、改めて棄教を迫られる。当初は拒否していたものの、苦しむキリシタンの声を聞く内に初めて沈黙していた神の声を聞くことになる。そしてロドリゴは遂に…

 

壮絶な拷問のシーン

物語冒頭から伴天連が熱湯を浴びせられたりといった拷問シーンから始まる。その他にもロドリゴ達が見ている前で海岸に水死するまで磔にされたり、斬首刑や穴吊りなど残酷な描写が目白押しになっていて、当時の過酷な状況をリアルに再現している。

なので日本ではPG-12指定(子供の鑑賞には保護者の指導を推奨)とされている。

 

キチジローの存在

物語の重要人物の一人であるキチジローだが、この男はキリシタンであるものの踏み絵をやってのけたりキリスト像に唾を吐いてみせたりするなど要領が良く生存本能が強い。挙句の果てにはロドリゴを裏切って銀300枚で役人に売ってしまう程のダメ人間だ(というよりもクズ人間か)。

それなのにも関わらず、ロドリゴに再び接近して告解を求めてくるのだ。ロドリゴは哀れな男であると軽蔑していたものの、その後も奇妙な縁は続き、最終的には江戸にまで一緒についてくるのだ。そして、ロドリゴから感謝を述べられるまでの関係になっていく。

感想

物語の全体を通して日本の役人が行ったキリシタン弾圧の残酷さが目立ったが、それ以上に当時のイエズス会の侵略行為や奴隷売買等の行為が明るみにされていなかったことへの疑念が終始拭えなかった。

かつて豊臣秀吉キリスト教を禁教にしたのも日本人を奴隷として売り飛ばしたり、宗主国のスペインやポルトガルが軍隊を日本を送るのを阻止する為であるのは有名だし。

かといって罪のない信徒を拷問にかけたり処刑したりするのを正当するのも間違いであると思うが。

 

話は逸れてしまったが、タイトルの「沈黙」にある通り、どんなに苦悩して祈ったとしても誰も何も答えないし、何もしてくれないのだ。ロドリゴが残虐な拷問や処刑を目の当たりにして神はなぜ救ってくれないのだ!?と苦悩する場面が多かったが、キリシタンが目の前で拷問されて苦しむのを見て初めて、ロドリゴ自身の中にある「神の声」を聞くことになる。そして棄教を決意する。

棄教を決意してからは一切のキリスト教信仰を素振りを捨てて日本人として生き抜いていくことになったが、火葬される際には彼の手の中にかつてキリシタンのモキチから譲り受けた十字架があった。つまるところロドリゴは心の中では信仰を捨てていなかったのだ。

また、ロドリゴと対照的に描かれているキチジローも興味深い。最初はすぐに裏切ったりする癖にまたロドリゴに接近したりして意味がわからない人物であったが、何だかんだいってロドリゴの付き人になって一定の信頼を得るまでになるのだ。彼は江戸での踏み絵の際に懐にマリアが描かれたお守りを隠し持っているのが発覚して捕らえられてしまうのだけど、彼もまたロドリゴとは違った形で信仰を守り続けてきたのだろう。

意志が弱くて何度も裏切ったり愚かな行為を繰り返しながらも、最後まで信仰までは捨てきれずにいる姿は、ダメな人間であるけれどもどこか憎めない魅力を感じるのだ。

 

最後に、信仰というものは仏や神様に祈ったりすがったりするものでなく、自分の中にある神様を信じる、もとい信念を持ち続けることなのだなと改めて思った。